100年前の石碑は語る。先人が八戸三社大祭と八戸えんぶりにこめたメッセージとは?

八戸三社大祭と八戸えんぶり。この2つの祭りは、どちらも長い歴史を持ち、これまでずっと八戸の人が守り続けてきました。

今では毎年当たり前のように行われている祭りにも始まりがあります。
そして、祭りを行おうとした「理由」がきっとあるはずです。

大昔の人たちは「石碑」にそれを書くことで、後世に伝えようとしました。でも、大昔の日本語で書いているので、読もうと思っても意味がよく分かりません。

今から約100年前の昭和3年に長者山新羅神社に建てられた石碑「称徳碑(しょうとくひ)」には、八戸三社大祭と八戸えんぶりに関する大事な「メッセージ」が書かれています。よーく目を凝らしてみると、この石碑には「連合三社大祭」や「豊年祭」の文字が刻まれています。

大昔の人々は、今の人々に何を伝えようとしているのでしょうか。昭和3年に八戸の人々が建立したこの石碑の碑文を読むことで、その「思い」を紐解くことができそうです。

コロナ、人口減少、繰り返される戦争。そして待ちに待った祭り。

八戸三社大祭に参加しているとある伝統芸能の関係者は、「4年間一度も集まっていなかったから、人が集まるかわからない」「祭りに参加できるか不安」と表情を曇らせます。

冬の「八戸えんぶり」と、夏(秋)の八戸三社大祭。八戸を物語る2つのお祭りは、毎年のように当たり前に繰り返されてきました。大昔の人々は、「地域を良くしたい」という願いを「祭り」と言う形で可視化してきたのでしょう。

コロナが世界を襲った2020年〜2023年。八戸の祭りやイベントは中止や規模縮小に見舞われ、その歩みにストップがかかりました。八戸えんぶりは2021年、2022年の2年連続で中止。八戸三社大祭は2020年〜2022年の3年連続で、神輿・山車・郷土芸能などが練り歩く行列の開催が見送られました。

そして、ようやく2023年、八戸えんぶりは3年ぶりに再開。八戸三社大祭は4年ぶりに通常規模で開催となります。

待ちに待った祭りが、帰ってくる・・・!4年ぶりの八戸三社大祭に向けて、山車組や郷土芸能団体などは、日々準備を進めています。しかし、人類最大の過ち「戦争」の影響による物価高騰で山車制作に掛かる費用は膨れ、人口減少の影響で参加する子どもが減った組もあると聞きます。

歴史を振り返る時「激動の時代」という言葉を使うことがありますが、まさに今が八戸にとって「激動」の時。コロナ禍、人口減少、そして繰り返される戦禍・・・。

昭和3年の人々が残したこの石碑は、今の八戸の人たちを応援しようとしているようにも感じられます。

碑文は手紙。昭和3年の八戸の人々から、今の八戸の人々へ。

石碑が建てられたのは1928(昭和3)年、2023年から数えて95年も前のことです。

八戸えんぶりの初日である2月17日、各地から長者山新羅神社に集った約30組の「えんぶり組」は、神社の神様にご挨拶をした後、この石碑の前で深々と頭を下げます。

石碑には、それだけ八戸の祭りについて大切なことが書いてあるということ。

碑文の冒頭にはこんなことが書いてありました。

我が地方の年中行事の一つであり、郷土芸術としての誇りであるえんぶりが再興された。

地方で稀に見る祭典である我が三社大祭の盛りに挙行される、社殿が壮麗で境内が優雅な新羅神社の基礎は、いまや確固たるものがある。

これもひとえに、故大澤、小幡、故河野三氏の尽力によるものである。

「称徳碑(しょうとくひ)」の碑文の一部を現代語訳したもの

衰退したえんぶりが再興され、三社大祭が盛大に行われ、立派な新羅神社の境内の基礎ができたのは、大澤、小幡、河野の3人の尽力によるものだと書かれています。

碑文が語る、「えんぶりが消えた八戸」の様子

明治9年、当時の青森県の長官(県知事)は、「えんぶり」を禁止しました。えんぶりは「旧来の陋習(ろうしゅう)」「旧暦による醜態(しゅうたい)をかもしだす行事」など、ことごとく否定されたのです。

えんぶりが禁止された八戸は、徐々に衰退していったようです。石碑には、この時の状況が書かれています。

明治の頃より、えんぶりの衰えぶりは、途絶えることを避けられない状況になって久しい。

そのため、村落では冬季の暇つぶしにつまらないことに走るというよくない傾向があった。したがって、商人の家々も閑散として活気がなくなっていった。

そこで、三氏がこの状況を嘆き心を砕き協議して、明治14年、新羅神社にあわせて祀る稲荷神社の例祭として「豊年祭」と改称し、年々これを挙行するのに至ったのである。

「称徳碑(しょうとくひ)」の碑文の一部を現代語訳したもの

碑文によるとえんぶりが禁止された八戸の状況は、「商人の家々も閑散として活気がなくなっていた」と書いてあります。かつては城下町として栄えた中心街ですら閑散としてしまっていたということなのでしょう。

これを嘆いた3人は、えんぶりを「豊年祭」と改称し、新羅神社の中にある稲荷神社の例祭として復活させることに成功した・・・ということのようです。これが、明治14年の出来事だったとも書いてあります。

おがみ神社の神輿渡御が三社大祭へと発展した背景

八戸を代表する夏祭り八戸三社大祭は、本来は秋祭り。江戸時代の1721年、八戸藩のお城の敷地内にあったおがみ神社のお神輿が八戸の城下町を練り歩くものでした。

時代が変わって明治に入り、このお祭りに新羅神社と神明宮が加わって現在も続く「三社大祭」が成立しています。碑文にはこの時の状況も書かれています。

八戸の大祭は初め、おがみ神社だけが行ってきていたが、明治19年、三氏が奔走し間を取り持って世話をした結果、新羅神社、おがみ神社、神明宮の連合三社大祭となり、

また、大澤氏は、明治27年日清戦争の戦勝記念として、当地の有志と京阪地方などから多額の金銭と貴重な奉納物を募って、これを新羅神社、おがみ神社、神明宮の三社に分けあって、明治31年に神輿を整え、三社大祭渡御式を行うまでに至ったのである。

「称徳碑(しょうとくひ)」の碑文の一部を現代語訳したもの

3人の尽力によって、おがみ神社のお祭りに、新羅神社を加え、「連合三社大祭」が成立。そして、明治27年には、多くの寄付を募って、それを3つの神社に分け合い、お神輿を作って「三社大祭渡御式」を行うようになった。三社大祭成立の背景には「日清戦争の戦勝記念」もあったようです。

振り返れば、この3人の行動がなければ、八戸を代表するお祭り「三社大祭」は成立していなかったと言うことになります。

「えんぶり」と「三社大祭」がある、「当たり前の八戸」の素晴らしさ。

碑文の後半には、明治の激動の時代を駆け抜けた3人の尽力によって八戸がどうなったのかも書かれています。

今や、えんぶりは名物・郷土の芸術の代表として、東京に招かれるまでになった。

三社大祭は、地方で稀に見る祭典で、年中行事の随一のものとなり、

新羅神社は社殿が壮麗であること、境内が優美であることに加えて(中略)ますます高く勢いがあるものとなった。

これはすべて、三氏が己を捨てて尽力した結果に他ならない。

称徳碑(しょうとくひ)」の碑文の一部を現代語訳したもの

えんぶりは郷土の芸能として東京に招かれるまでになり、三社大祭は地方で稀に見る祭典になったと書かれています。

碑文は、八戸の人々が当たり前のように楽しみ取り組んできた2つの祭りがいかにして復活・成立したのかを、分かりやすくまとめて伝えてくれています。

碑文の最後は、こう締めくくります。

昭和の、このめでたい御代に、有志が相談して場所を新羅神社の境内に定め、三氏のために碑を建てることにした。

縁があって碑文を書くことになったが、栄誉であると考え引き受けた。

三氏の功績を短い文章に綴って褒め称える。

称徳碑(しょうとくひ)」の碑文の一部を現代語訳したもの

振り返ると2020年、コロナ禍に陥った八戸ではほとんどの祭り・イベントが中止されましたが、同時に「来年こそは祭りをやろう!」という声も聞かれました。

状況は好転せず、八戸えんぶり・八戸三社大祭は2021年・2022年も中止や規模縮小に。しかしその中でも祭り関係者は、郷土の伝統を絶やさぬようにと代替イベントを開くなどしてきました。

今の八戸の祭りがあるのは、今回ご紹介したような先人が、逆境に負けないように、地域が元気であるように願った結果でもあるのでしょう。そして昭和3年の人々は、それを後世に伝えようと石碑を建てました。

2023年、コロナでスピードダウンした八戸は、少しずつその勢いを取り戻しつつあります。人口減少や物価高騰など、様々な課題がある中ではありますが、逆境に負けじと取り組んだ先人の願いを繋ぐのは私たちなのだと、この石碑が語っているようにも思えます。

参考
▷2018年に、八戸市博物館館長(当時)から見せていただいた資料
▷続きたおうう人物伝(デーリー東北)
▷歴史と伝説「南部昔語」(正部家種康著)
▷季刊あおもりのき第12号

この記事の碑文の現代語訳は、とある有識者の方にお願いしたものです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です