烏帽子は遊ばせてこそ生きる。明治14年のえんぶり烏帽子がつなぐ、久慈と八戸の縁

今から約140年前の明治14年に作られた塩町えんぶり組の烏帽子。古い風習であったえんぶりが当時の青森県令(県知事)によって禁止されたのが明治9年。この烏帽子は、八戸でえんぶりが復活した明治14年に作られた、「歴史を語る烏帽子」です。

この烏帽子は昭和初期に塩町のもとを離れて岩手県のどこかに移され、行方不明に。塩町の人々が発見するまで、どこにあるのかわからない状態でした。

塩町えんぶり組では、わずかな情報を手掛かりに3〜4年の時間を要して烏帽子の所在を調査。平成14年に、久慈市の天神堂町内会が大切に保管していることを突き止めます。その後この烏帽子は、久慈と八戸を結ぶ架け橋となりました。

烏帽子は塩町を離れている間、どのような日々を送ってきたのでしょうか。この度、この烏帽子を拝見する機会をいただきました。

この記事は後編です。前編はこちら えんぶり烏帽子に神が宿る?140年前の烏帽子は語る

コロナ禍を経て、3年ぶりに再会

2月11日、塩町えんぶり組で「太夫」を担当する若手の親方2人と一緒に訪れたのは久慈市の「天神堂公民館」。特別に作ったと言う祭壇に、烏帽子はありました。令和3年、塩町ではこの烏帽子にお神酒を供えに行くことを考えていたそうですが、コロナ禍に。この日、塩町の2人は八戸から持ってきたお神酒を供え、二礼二拍手一礼。塩町の太夫と烏帽子が3年ぶりに「再会」を果たしました。

天神堂の烏帽子は明治時代の物にしては状態が良く、大きな痛みはない様子。烏帽子には確かに、塩町の紋が描かれていました。この紋はえんぶり組、山車組、消防団が一緒になって活動する「塩町和合組」の証。数あるえんぶり組の中でも、塩町の烏帽子だけに描かれているものです。

昭和初期に久慈に移されて約90年。天神堂町内会では今でも「町内会の宝」として、この烏帽子を大切にしているようです。烏帽子と一緒に、太夫が持って舞う「ジャンギ」もありました。これも同じ時代のものだそうです。

140年前の烏帽子を「遊ばせる」

えんぶりでは、烏帽子をかぶって舞うことを「遊ばせる」と言います。「神が宿る」とされる烏帽子は、やはり被って舞うからこそ意味があるということなのでしょう。

町内会長さんの話によれば「5年前までは地元の高校生がえんぶりをやっていた」と言います。この烏帽子を真似て新しい烏帽子を作り、えんぶりをやっていたのだとか。話を聞く限りでは八戸えんぶりのそれとは違うようですが、それでも、烏帽子は塩町を離れた90年間も久慈の地にえんぶりを伝え、「遊んで」いた模様。

こういったお話からも、天神堂の人々がどれだけこの烏帽子を大切にしていたかがわかります。そして、昭和初期にこの烏帽子が久慈に移されたからこそ、天神堂にえんぶりの文化が芽生え、つい5年前まで受け継がれ続けていたということなのでしょう。

烏帽子は、遊ばせてこそ生きる

文化は、人と人が関わり合ってこそ発展するもの。久慈の高校生によるえんぶりは途絶えてしまいましたが、この烏帽子は、天神堂と塩町の縁によって大切に扱われる限りは、生き続けることができるのだと思います。

塩町の若い親方は、「なんとか来年は、烏帽子にお囃子を聞かせたい」と語りました。今年の八戸えんぶりではそれは叶いませんが、きっと近い将来、塩町えんぶり組が天神堂を訪れたり、烏帽子を八戸えんぶりで使用したりして、遊ばせることができる日が来ると思います。

天神堂では、今でも毎年8月第4日曜日の天満宮のお祭りでこの烏帽子を「遊ばせて」いるそうです。今年は8月27日の予定。この祭りに合わせて烏帽子の修理をしたいとのことで、今後、塩町で預かることになるようです。

2023/7/10追記 8月27日に烏帽子を披露する予定はなくなったとのことです。

久慈と八戸を結ぶ「140年前の烏帽子」は、再び塩町のお囃子に乗り、太夫と共に舞うことができる日を、心待ちにしているのでしょう。

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